暴力性の境界線
暴力の境界線
グッドニュースがある。私は暴力と、厳さ、強さの違いを一つの線引きで分けることに成功した。
暴力は選択肢を奪う行為。
逆に選択肢を奪わなければ暴力性というものがかなり薄れる。
そして、教育や優しさ、暴力としばしば対比されるものは何かしらの選択肢を相手に与えている、という風にとれる。
人に手をあげ、防御本能の行使を余儀なくさせる。話を聞かない、ご飯を食べさせない、これらはすべて選択肢を相手から奪う行為だ。
しつけ、というのがほんとうにその子に社会性を与えているのか、問題行動をする選択肢を奪っているだけではないのか?
こういった線引きで虐待もはっきりしてくる。
ただ、ひとつ誤解をしてほしくない点がある。
暴力性というのが絶対悪だと思われがちだが、そうではない。
ある種の芸術に選択肢の制限は不可欠なのだ。
例えばホラー映画。観客を驚かせたり、怖がらせたり逆に、冷静を装わせたり見る側のリアクションを制限はしている。つまり選択肢を奪っているように見えるがじつはそうではない。
ホラー映画の場合、スリルが欲しい客に、スリルを感じるという選択肢を与えている、それも、とてもつよく。しかも、それは客の意思で強引な選択肢の制限ではない。
もっとわかりやすい例をあげよう。
医者だ。
医師が手術を行うとき、メスで体を傷つける。食べるものを制限する。
これは暴力なのか?一見そうかもしれない。
けれど、医師は生きるために選択肢を削らせながらも、そもそもの生きる、という選択肢を強く与えているのだ。だからこそ医師免許というものは相応の知識がないと取れない。
善は細部にわたって行われるべき
という言葉があるがこれこそ真実だと私は思う。
善と暴力が手を組んだとき、とてつもない
パワーを生み出せる。
が、常にそれはリスクをともなう。
ある種の暴力性はとても魅力的に見えてしまうが、これは与えられた選択肢なのか
選択肢を奪われた結果なのか…
よく見極める必要がある。